ただの人間の日記

twitterから逃げてきました。

「獨善性」

ただの人間らしく、所謂三日坊主で二箇月餘り更新が滯るといふことになつてしまつたが、今の處、特に讀者もをらず、後でできるであらう讀者にとつてみればただの三日目の日記なので、何事もなかつたやうに續けて行かうと思ふ。

ここ二箇月の間によく考へてゐたのは、「獨善」といふことについてである。抽象的な話になるけれど*1、まづ、例へば、世の中の六割を占めるやうな多數派の集團Aがあるとする。多數派の意見は槪ね正しい。しかし多數派だからと言つて常に正しい訣ではない。その集團Aは、多數派であるが故に獨善的であり、なかなか反對意見に耳を貸さない。

そこで、その獨善性に反對して自分たちの正義を強く主張する少數派の集團Bが誕生する。その勢力は、假に世の中の一割程度としよう。多數派から見れば六分の一程度の少數派である。少數派集團Bは六倍の力を持つ多數派集團Aに對抗せねばならないため、結束を強くする。また、多數派集團Aに屈しないために、自らの正義を信じる思ひが強くなる。……さうかうすると、多數派集團Aの獨善を批判してゐた筈の少數派集團Bは、多數派集團A以上の獨善性を持つやうになりがちである。

「少數派」と言つても、十人の内なら一人だが、十萬人の内なら一萬人になる。世の中の一割もゐれば相當な數になる。そして、少數派集團Bも、同じく所詮はただの人間の集まりであるから、時々間違へることだつてある。その時、少數派集團Bに属する個人Cがその誤りを指摘したとする。その時、少數派集團Bは、多數派集團Aと同じく、否、それ以上の獨善性を発揮し、個人Cに對して罵詈雜言を浴びせたり、除け者にして追ひ出したりする*2

多數派にしろ少數派にしろ、右にしろ左にしろ、獨善的な集團・獨善的な人・獨善的な思考といふのはいちばん厄介で、對處に困るものである。まあ「正義感が強い故なのだ」とか、理解はできるが……。

「おまへがいちばん獨善的だらう」といふツッコミの聲がどこかから聞こえてきた。さうなのだ、獨善獨善言つてゐる奴こそがいちばん獨善的だといふ自己矛盾である。獨善的でない人は、きつと他人の獨善も氣にならない。

まあ、自分の意見を大事にするのと同じぐらゐ、他者の意見をも大事にしていきたい。さういふ世界に住みたいと思ふ。

參考記事紹介

note.com

「独善性」で檢索して、こちらの記事に非常に共感した。別の記事を讀むと、相當な苦勞人のやうである。どうしてこのやうな立派な考への方に、次々と不幸が降りかかるのだらう。山田大記選手。サッカーは全く詳しくないが、憶えておかう。

*1:具體例の方が同時代の人にとつては理解し易いが、抽象的な話の方が後世の人には理解しやすいものである

*2:世のカルト集團といふのは大凡このやうなものである